ロベルト・バッジョのファンタジックゴール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ロベルト・バッジョ(Roberto Baggio、1967年2月18日 - ) (バッジオ/バッジォと表記することもある)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身のサッカー選手。 1993欧州年間最優秀選手、1993FIFA最優秀選手。03-04シーズンで現役引退。セリエA通算205ゴールは歴代5位。使用スパイクはデビューから引退までディアドラ(1999年、イタリア代表での試合など一時期のみkappaを使用)。
「イタリアの至宝」、「偉大なるポニーテール」と称され、現役を退いた今も世界中に多くのファンをもつ。華麗なプレースタイルはアレッサンドロ・デル・ピエロやフランチェスコ・トッティらが、その系譜となる。今ほどCSやBSが普及していなかった頃からすでに彼の名は日本でも知られていた。
趣味はハンティング。通称は「ロビー」、愛称は「コディーノ」(馬の尻尾。髪型に由来する)。親日家。
キャリアを通じてイタリア国内リーグで活躍。1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビュー。1984-85シーズンに12得点を記録。1985年にはセリエAのフィオレンティーナに移籍した。ところが契約成立からわず2日後、右膝十字靭帯断裂の大怪我を負う。それでもフィオレンティーナは契約を破棄せずに辛抱強く回復を待った。移籍直後の1985-86シーズンを欠場(コッパ=イタリアの試合には出場)、1986-87シーズンも数試合の出場だけにとどまってしまう。だが、怪我の回復した1988-89シーズンには15得点(ヴィオラはUEFAカップ出場)、1989-1990シーズンには17得点という活躍をした。マラドーナ率いるナポリ相手に見せた、ドリブルで独走して決めたゴールは有名。
1990年、(当時)史上最高の150億リラという移籍金でユヴェントスに鳴り物入りで移籍(ユヴェントス移籍がヴィオラのオーナーによる一存で、フレンツェでは暴動が起こっている。バッジョ自身も望まぬ移籍だったため困惑した)。1992-93シーズンに21得点を挙げ、チームをUEFAカップ優勝に導いた。これはユヴェントスにとっては久々のヨーロッパタイトルだった。この功績・貢献が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを受賞。
その後、自身のケガと若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭するなか、若返りを推し進めるユベントスは、1995年ライバルチームであるACミランへ放出してしまう。ACミランではファビオ・カペッロ(およびアリゴ・サッキ)監督が(ポジションが重なるためとはいえ)FWにはデヤン・サヴィチェヴィッチを重用、さらにバッジョ本人の怪我もあり、在籍2シーズン中は、さしたる活躍はできなかった。特にサッキはバッジョからPKキッカーを取り上げるばかりか、完全にピッチから彼を追い出した。
しかし、ワールドカップシーズン直前の1997-98にボローニャに心機一転移籍すると、自己ベストの22得点をマークして結果を残す。このためワールドカップ予選ではまったく呼ばれなかったが、見事に本大会メンバーに選考される。
1998年から、再びビッグクラブのひとつインテルで2シーズン過ごす。移籍初年度の1998-99シーズンはバッジョとロナウドという夢の2トップにインテリタは心躍らせた。その二人がトップを組んだUEFAチャンピオンズリーグのレアル・マドリー戦ではバッジョは2ゴールを挙げる活躍を果たす。だが、ロナウドはキャリアを左右する膝の大怪我、バッジョも何度も負傷を起こし、結局この二人が組むことはほとんどなかった。その後も、怪我と(特にマルチェロ・リッピ)監督との確執によって再び出場機会が減少してしまう。
このインテル時代のハイライトは、2000年5月23日のパルマ戦(CL出場権プレーオフ)であろう。このシーズンは、スクデット争いにさえも参加できない低調で無様なシーズンであった。そのため、クラブ首脳陣はCL出場権を獲得しなければ、監督更迭をも視野に入れていた。そんな中で、この試合はまさにバッジョのためのゲームだった。前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点を奪う活躍を見せ、ガゼッタ・デロ・スポルト誌での評価点“10”を獲得(通常、最高評価点で有る10が出ることは滅多に無く、引退する選手へのご褒美もしくは生命を救った選手に与えられる)。この試合でバッジョは退団、有終の美を飾り、CL出場権を獲得したリッピは監督続投決定、というなんとも皮肉な結果に終わる。
2000年から、 ブレシアで4シーズンを過ごし、信頼するカルロ・マッツォーネ監督の下でいぶし銀の活躍を見せる。
2001-02シーズンでは、日本でのワールドカップ出場のため、並々にならぬ闘志を燃やして臨み、シーズン前半にゴールを量産。しかし、ワールドカップイヤーの2002年1月31日のコッパ・イタリア準決勝パルマ戦で彼は左膝十字靭帯に全治6ヶ月のケガを負ってしまう。誰もがワールドカップ出場が絶望と思われたが、彼は本大会出場を目指し脅威のリハビリで僅か2ヶ月で復帰。4月21日のフィオレンティーナ戦で後半25分から出場すると、そこから2ゴールを挙げ奇跡を復活を果たした。だが、こうした彼の努力も報われず、当時のイタリア代表監督ジョバニ・トラパットーニは本会メンバーに彼を選ばず、チームも本来の力を出せずにベスト16で姿を消した。
2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦(2-4で敗戦)を最後に引退した。この試合で83分にバッジョの途中交代(コルッチが出場)を告げられると、バッジョに対してスタジアム全体からスタンディングオベーションが送られた。ブレシアの背番号10はクラブの永久欠番となっている。ちなみに、ブレシアのクラブショップでは彼の引退後も、新しいレプリカユニフォームにNo,10/BAGGIOのネームナンバーが入った物が発売されている。
独自の美学を貫いたため監督と意見が合わず、幾つもチームを渡り歩くキャリアであった(監督の立場としては、怪我が多く常時戦力と期待できない面もあった)。しかし、守備戦術が横行するファンタジスタ受難の時代においても、バッジョのサッカーセンスは何処でもまばゆい輝きを放ち続けた。 また、優れた人格者で、人をひき寄せる魅力があり、バッジョと共にプレーするために移籍する選手もいた。
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